=幼い時の深い記憶=

 

みなさんこんにちは。平素は鳥の巣釣り場をご利用いただき有難うございます。

「12月は前から引っ張られ1月は背中を押される」と云い慣わされてきましたが、誠に実感です。既に月が替わって節分・立春。

今冬は居座った寒気が抜けた合間の2,3日、やっと一息つく感じです。それでも水を張った水田やため池が凍ることはないので思ったほど寒くはなく、強い北風が実際の気温以上に体感を刺激しているのでしよう。風速が1m上がると体感温度が1℃下がるといいますから。

釣り場の浅瀬ではモク類が急激に伸びてきました。その周辺に小魚の大群が群れをつくっていました。誰もが何という魚か気になっているのですが、生憎と正確に判定できません。地元の漁師はボラの稚魚ではないかと申しておりましたが、これほどの大群は記憶にないとのこと(お年寄りが口にしがちな言葉ですが・・・)。「不漁が叫ばれるシラスの替わりにならないかしら?」という問いに、「鱗が邪魔になる」とのことでありました。残念!

釣り場の直近水温は15~16℃前後で推移しており、過去2年に比べると2℃ほど高めです。透明度は底まで見通せる“南紀ブルー”から、今は幾らか落ちてきた印象です。

1月は荒天とコロナの爆発的感染増加の影響もあってかチャレンジャーが激減する中、チヌ類は25㎝前後主体に1尾(一人あたり)でした。こうして眺めてみれば結構イケてる数字になっています。

アジ類は根気のよいTさんの努力が実りつつあり、青・赤混じりで片手~両手程度。その中に30㎝級の良型も混じっています。周辺でウミネコやカモメが海面へ、海では鵜の軍団が水中へとアプローチを繰り返しているので何らかの魚は泳いでいるものと考えられます。

釣り場周りの小魚の群れ(ボラの稚魚?)

1月15日に発生したトンガの海底火山の噴火は同国に深刻な被害を及ぼしています。また太平洋沿岸の各地に噴火に惹起された津波が押し寄せました。我が国でも最高波高は1.2m程度であったが、地域的には漁船の転覆や筏の流失が起こっています。

幸いにも田辺周辺では大きな被害は認められないし、漁協の養殖筏も無事であった。とは言え、海水は短時間周期で干満を繰り返し、海へと続くスロープから間断なく異音が聴こえ、板を止めている釘が何本も浮き上がっていました。「際どいところで踏みとどまった」、というのが実感です。「筏の強度はそれ程高くない」というのが海の仕事をしてきた古老から聞かされた話です。釣り場に来場される皆様は危険と隣り合わせであることを今一度記憶に留めて頂けるよう切に願う次第です。

さてこの機会なので、我が家の年寄りが津波がらみで話していた2,3の断片的なエピソードを書き留めてみます。

先の昭和南海大震災の大地震が発生した際、この地域では津波の襲来を察知し高台を目指して身体一つの着の身着のまま裸足で逃げたとのことです。靴は津波で流されてきたのを片方ずつを組み合わせて一足にしたから、もちろん両足が揃っていない。米も流されて食べものに苦労した中、溺死した牛を専門家の手を借りて捌いて食べたのがご馳走だったそうであるが、この牛の所有を巡って住民の間で小さな諍いがあったと聴いている。解体には専門家が手助けしてくれたそうであるが、先立って内蔵のガス抜きをした際、何ともいえない異臭があたりに立ち込め、その記憶が70年の時を越えても鮮明に残っているとのこと。

兵隊の軍服が被災者に一着配給され、炊き出しの応援が2,3回なされたが、それはおにぎりが一人に一個。何ともささやかであるが、戦争直後の食糧難という時代背景もありそうです。被災から免れた近隣町村の住民は「軍服を着ているのは内ノ浦地区の住人」と話していたそうである。母親は配給の軍服を記念に保管しており、ごく稀に日干ししている(草色でごわごわした厚手)。昔の兵隊は体躯が小さかったのですねえ。

近所の河川やため池から蛇やカエルが泳ぐ水を汲んで家まで運んだが、風呂はひと月後の貰い風呂が最初であった。何人も使った後の水は黒ずんでいたが、気持ちはすっきりしたらしい。この津波で田辺湾央の内ノ浦地区で家屋が流失せず無事だったのは2,3軒だけだったそうです。

太平洋戦争の敗戦のダメージを引きずり、生きるのさえ厳しい時代。食料のみならず働き手をも失った絶望の淵から一縷の望みを頼りに今の日本社会を創り上げた先人の苦労が偲ばれます。現在、災害後の行政や民間からの支援体制はかなり整っており昔と比べるべくもないが、とはいっても当事者のダメージは深刻であることに大きな違いはなかろう。

「天災は忘れた頃にやってくる」とは物理学者 寺田寅彦の言葉でなかったか。ともあれ緊張感が増すのはここ数年、各地で大きな地震が頻発しているせいでもある。阪神・淡路大震災では車の中で寒さをしのいだ被災者が大勢いた。以来、自家用車の燃料が半分を切ったら補充するようにしている。この習慣はその後に発生した安芸灘地震や東日本大震災の際に大いに助けになった。