=音の記憶=

 

皆さんこんにちは。平素は鳥の巣釣り場をご利用いただき有難うございます。

鳥の巣半島のあちこちに散在する小さな水仙群落に花を付けた株が出始めています。寒椿や山茶花の開花はもう少し先のようです。

釣り場(=養殖場)で行われているマガキ養殖の関連作業は稚貝の垂下へと遷っています。作業筏の下には「こんな大物が何処に隠れていたのか?」と思わせる大型のチヌ達が群れています(写真参照)。また、紋甲イカの幼体が造る小さな群れが釣り場作業員たちのホークアイによってしばしば目撃されています。

釣り場の水温はここしばらく17~18℃前後でわりと安定的に推移してきました。変動の激しい湾奥では珍しいことですが、来襲中の寒気の影響で幾らか下がることが予想されます。

透明度は青みが入り、底まで見通せる日が多くなっています。久しぶりに現れたNさんが「めったにない機会」と目を凝らし、釣り場の海底環境の把握に努めていました。こうした積み重ねが釣果に影響してくるのかもしれません。

12月前半のチヌ類はほぼ4匹(1人当たり)となりました。チヌ類は40㎝超えの良型をかっさらっていったAさんの例や上記目撃例からもわかる通り、筏周りに大物が常在しているのは間違いなさそうです。が、チャレンジャーたちの挑戦が「針付きの餌に喰い付いてこない」慎重さによって悉くはねつけられています。今は揚がる魚の主体は小型のヘダイが圧倒的に多くヘダイワールドの観を呈しています。

アジ類は青アジ類主体に”赤”がわずかに混じる状況です。青アジの群泳が筏の上からも視認できます。湾内を回遊しつつ不定時に現れ、何時の間にか姿を消すという具合で、当たればその時間帯は愉しめる、という状況です。但し、青アジ人気はいま一つで、魚にはちょっと気の毒な気がします。でもこれを餌に大物を立て続けにゲットしたNさんの成功例もあります。

 

まるで水中観光:マガキ収穫作業場の周辺に集まった魚の群れ

 

既に知り合い達に話したことであるが、昨年あたりから想い出創りのため(?)旧友や知人がちょいちょい訪ねてくるようになっています。あるいはそうした集いの声掛けもあります。

訪問者の記憶は昔日のものであるから、数十年振りの再開時の第一印象は「歳を取ったなあ、どこの爺さんかと想った。これでは街中ですれ違ってもわからないぞ!」。余計なことについ「私の方がちょっと若いみたい・・(バックでずっとずっと・・)」と調子に乗りがちである。もちろんそんなはずは無いし、お互いに同じことを考えているに違いない。

昔日の面影をかぎ分けつつ話すうちに当初の違和感が薄れていく。そうした経験から意外と声のトーンや調子が昔の記憶とギャップが少ないことに気づかされる。「視覚より音の方が相手を認識するツールとして有効である」、と云うのが今の認識です。

考えてみれば、生まれる前の胎児の時代から様々な音に触れ、臨終の間際まで感覚器官として機能しているらしいから、我々の周りに溢れる様々な音を捉えることは人間にとっては最も基本な機能感覚なのかもしれない。そう言えば我が家の年寄りは「風呂(五右衛門です)の沸き加減は蒸気(お湯?)の音でわかる」と話していました。

とは云っても音に対する感覚(受け取り方)は万人に一様でない。例えば、日本人は秋の虫の鳴き声を風流と捉えるが、西洋人には騒音にしか聴こえない、とは以前に記した。似たような話(?)として、今時は学校や公園周りの住民から「子供の声がうるさい」としばしばクレームが届くらしい。あるいは隣家の池のカエルの鳴き声がうるさいと裁判沙汰になった事件が2,3年前に報じられていた。なんちゃって農業者の私などカエルの鳴き声を稲作の合図にしているのに。

レイチェル・カーソンの“沈黙の春”に想いを馳せれば、生き物のざわめきが消えた世界がどれほど悍ましいものであるか想像できそうだが・・・。風や波の音と同様に子供たちの歓声や動物たちの発する様々な音は人間の未来への財産(or保険)と考えられないだろうか!?

近頃は“個”が高度に優先(優占)する社会になってしまった。そこでは自分たちが周りの自然や生き物たちとの連携の中で生きていることを忘れがちである。現在社会が抱える多くの問題の根源がこの辺りにあると感じています。